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「あなたの人生にやり直しがきくならば」8月24日
人生のやり直しは効かない。だから、人生は後悔の連続であると言われる。誰でも、後悔する。お金持ちも、貧しい人も、地位ある人も、ない人も、名誉ある人も、ない人も、誰でも後悔する人生を生きる。だから、人は将来への不安を持つ。過去の後悔は未来の不安に繋がる。それで「救い」を求める。
自力でそれを求めようとするのが人間の宗教である。倫理、道徳、公徳などによって求めるが、しかし、結局は得られないまま不安がつのるだけである。ニコデモという指導的な人物は、地上的な豊かさをもって、地上的なやり方で救いを求めようとしたが、得られなかった。それで、結局イエスにノックする。
イエス様は「水と霊とから生まれ変わらなければ、救われない」と言われる。生まれ変わる、つまり人生のやり直しである。「水と霊」による生まれ変わりは、地上的な言葉や働きによるのではなく、十字架につけられたイエス・キリストを信じることである。救いは地上的なものではなく、天上の事柄である。だから、天から来られたお方によってのみあなたに与えられるものである。人生の再出発させたい皆さん、イエスを信じましょう。
「イエスを立ちとどまらせなさい」8月17日
あなたは、肯定的な人なのか?否定的な人なのか?目の見えない二人の盲人はキリスト・イエスが通りかかるのを聞いて叫びあわれみを乞い求めた。キリストの周りにいた人々は彼らを黙らせたが、彼らはますます叫び続けた。イエス・キリストへの熱情である。熱情の信仰の無気力は現代クリスチャンの特徴である。その激しい叫びによって、イエス・キリストは立ち止った。イエス・キリストを自分たちの人生の前に立ち止らせるのは、激しい叫びである。が、しかしそれと同時に、彼らはキリスト・イエスへの適切な認識も大きな要素である。「主よ、ダビデの子よ」ただのイエスではなく、主として、旧約の預言のようにダビデの子と叫ぶ。誰を信じるのか、信仰の対象が明確であった。
立ち止ったイエスは彼らの目をさわられたのである。「さわる」ということは熱くするというキリストの熱情の現われでもある。あなたのキリストへの熱情はキリストをあなたの人生の真ん中に立ち止らせることであり、さらにキリストが熱情を持ってあなたの人生をおさわりになることとして結ばれる。
キリストをまずあなたの人生の前に立ち止らせなさい。これができないなら、私たちはキリストの熱い恵みにふれられることはないであろう。キリストは今も、あなたの熱情的な叫びを聞きたいと耳を傾けておられる。今日のあなたの叫びは、キリストの恵みの熱情として、あなたの人生に注がれるのである。
「あなたは冷たくもなく、熱くもない」8月10日
聖書は少なくともまことの・唯一なる・全能なる・創造主神を信じる信仰においては極端を要求します。唯一神教は恐いと言われます。「恐い」という言葉にひっかかる必要はありませんが、確かに聖書は信仰の道は一つしかないと語ります。神に近づく道は一つしかないし、祝福され救われる道も一つしかありません。だからイエスは、私は道であり、真理であるとおっしゃいます。あなたの命を祝福し、救い出してくださる方は複数いるのではなく、ただ一人のみの神様がいるだけであります。放蕩息子が戻ってくるべきところは複数の場所があったのではなく、ただ唯一の父の家のみでありました。
熱くもなく、冷たくもない信仰とは、まさに誰でもよい、どんな神々でもよい、沢山拝んでおけばよいという考えであります。
「極端」、「唯一」などの言葉に異議を唱える現代人は高慢としか言いようがありません。自分を創造してくださった神を知るなら当然「熱く」なるのです。それは信仰であり、熱い信仰であります。それをもって常に、あなたの心の扉を主に開けていきましょう。主はあなたと共に食事したいと、今も願っておられます。
「御言葉の魅力と力」8月3日
ヒラデルヒヤ教会は主から賞賛のみを受けた。その理由は、少ししか力がなかったにもかかわらず、主の御言葉を守り、主の御名を否まなかったからである。
御言葉を守り、主の御名を否まないことは、主なる神に何よりも喜ばれることである。だから、主は彼らの前に「だれも閉じることのできない門を開いておいた」。開かれた門を通って、ヒラデルヒヤ教会は主の祝福の恵みに近づくことが許されてある。
次に、人々の前で、特に自ら主の御心に従い、熱心であると主張する自己満足的な信仰者たちの前で、主はヒラデルヒヤ教会のみを愛すると宣言してくださる。認めてくださる。
さらに、主は試練の時に守ってくださるといわれる。わたしはすでにこの世に勝っている。そして、主は私の言葉を守る人のところに行って、その人と一緒に住むであろうと約束なさる(ヨハネ14:23-24)。
また、神の聖所の柱にすると言われる。地震の多いところで、柱となって二度と外へ出ることはない恵み、守られる恵みが彼らに与えられている。
主は完全を求めない。主は小さな力であっても、主に従うのを求める。
「主なる神が喜ばれる家」7月27日
神はダビデの幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる(アモス9:12)。 この預言はルカによって確認される(使徒行伝15:16)。神様はなぜ、モーセの荒野の幕屋でもなく、ソロモンの神殿でもなく、ゼルバベルの神殿でもないダビデの幕屋を再び興すと言われるのか?
ダビデの幕屋の特徴の一つは、聖所と至聖所とを区分する垂れ幕のない幕屋であった。ダビデの幕屋は、ソロモンの神殿の前段階として、一時的な、仮屋のような幕屋であった。それは誰でも至聖所に入れた。
もう一つの特徴は、ダビデの神の御臨在への渇望、慕い求める熱心さである。アビナダブの家に安置されていた神の箱をシオンの山に運び入れたいというダビデの強い願望である。誰一人神の箱に関心をよせない中で、彼は求めた。神のインマヌエルの祝福に与りたいという心からの願いを、主は求めておられる。その願いはキリストによって叶えられる。キリストという幕屋は聖所と至聖所との区別もなく、誰でも信じるなら救われるオープンな恵みがある。教会建築はこのオープンな恵みと強い願望から始まるべきである。
「リバイバルを渇望しなさい」7月20日
リバイバルはどのように、どこから起こってくるのか。それは様々である。今日のテキストはその一つの典型的な例を示している。主なる神への関心を持ち、主を慕い求めることから始まる。1.主を慕って嘆くことは、主を求めることである。そこに主のみ言葉が臨む。御言葉は求める者に与えられる時、出来事を起こすのである。主のみ言葉は、2.主に立ち返ることを要求する。それは、偶像を捨て去ること、心を主に向けること、そして主にのみ仕えることである。3.次に、ミヅパに集まれ!と命じられる。捨て去り、心を主に向け、主のみに仕える者は、ミヅパに集まる必要がある。そこで水を汲み、断食して、そして悔い改めが行われる。まことの礼拝の回復である。4.主なる神へのまことの礼拝が回復されるとき、初めて敵はあなたの存在に気が付く。あなたの敵(ペリシテ人)は攻め上る。5.イスラエルの民は「恐れる」。民はまだ主から力を得ていない。確信がない。そこで民は指導者に祈りを求める。6.サムエルによって完全な犠牲と献身が行われる時に、初めて主は答えられる(9節)。つまり、その時に初めて、民のために主が働いてくださる。主が力をもって働いてくださる時に、民は確信を得て、戦える。7.結果的に民は強くなる(13節:征服)。強くなることは、平和(14節)を保つことであり、リバイバルの結果的恵みである。神から離れていた時は、強く見えたが実は弱かった。主なる神が共にいてくださるときは、弱く見えても、強くなる。強くなることは平和に繋がることである。リバイバルは、あなたが神によって強くなることである。
「生きているのか死んでいるのか」7月13日
主のサルデス教会への診断は「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」ことである。「死んだ」という表現は神が離れてしまったことである。なぜ、神が離れるようになったのか。それは「目を覚ましていなかった」からである。安住、安泰のサタンの計略に飲み込まれてしまったのだ。敬虔な様子はあるが、その実、信心の力を否定している教会であった。単なる宗教活動、教養生活にすぎなかった。だから、七つの霊を持つ方が語られる。
聖霊に満たされた教会は目を覚ましている教会であり、居眠りする教会ではない。たゆむ暇がない教会である。
死にかけているサルデス教会をもう一度建て直す秘訣は、「汚れてない白い衣」を持っている者たちによってである。神のリバイバルの方式は、残された、神にとっておかれた者たちによってである。それらの人たちとは、「キリストと共に歩み続ける」(4節)人である。
あなたは、あなたの家族は、そして袋井北教会は主と共に歩み続けているのでしょうか。もし、そうであれば、あなたは、あなたの家族は、そして私たちの教会は消えかけている日本の教会のリバイバルのために用いられるべき「衣を汚さない」ものである。
「真と偽を見分ける知識を備えなさい」7月6日
燃える炎のような目を持つお方が、「愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、はじめよりもまさっていることを知っている」と、言われた。
このような積極的な神様から評価があるとしても、しかしこのテアテラ教会は「イゼベルの問題」を持っている。自ら女預言者であると自称するものであるイゼベルは、神に逆らう、神の栄光を覆すエリコの町を再建したものである。
真なる神にも仕え、そうではない偶像にも仕えていこうとする曖昧な態度、妥協的な態度、中立的な態度を主張する。この世を生きるためには、信仰も大事であるが、世の歴史や文化、慣習も大事であるという考えである。
このような妥協的な考えは、私たちの実存的な不安から来る。この世の歩調に合わせなければ、やっていけないという人間の不安から来るのである。
まず、神の義と神の国を求めるならば、後のことはすべて添えて与えてくださる。今の時代、偽りと真実を見極めることのできる信仰者はどれほどいるのか。不思議なことはどこにも起こるが、しかし真実な御言葉は稀な時代の中に、われわれは生きている。
「信じる者」6月29日
なぜ盲人か、本人に罪があるのか、 親にあるのか、神の御業が現れるためである。生まれつき盲人であり厳しい人生を送ることは目的があって選ばれた人である。
それは目が開いて魂の目さえも開いて信じるに至り、神をほめ讃え、彼の中に永遠の命が始まるという神の御業が現れるためである。神の予定通り彼は盲人として前半生を送り、突然主イエスによって目を開けられる。キリストご自身に出会い信仰告白するという神の予定があり、神の計画があったのだ。栄光とは、選びと召しを受けた者は「信じたい」と心から告白し、確信をもって信仰に導かれる。主に栄光を現わすことができる
パリサイ派の関心は、戒めを堅く守る律法主義の人であるから安息日に治療行為をしたことに関心があり、主イエスに責め寄った。安息日にそんなことをする人間は神の戒めを破っている人間で当然悪魔に動かされ神から出たものではないと非難した。
神は私をも選び、確実な救いの道に導いて下さる。救いは神の選びと予定に出発点があるからである。召しに答えるものは神様のものである。
「めぐみの翼に乗っての43年」6月22日
43周年の神の恵みに感謝しましょう。教団から離脱して信仰を共に告白する教会を目指していくことを祈り求めて参りました。何を信じるのか。どのように信じるのか。信じる神はどういうお方なのか。それで如何に生きていくべきなのかなどを告白するのであります。まさに同じ目的地に向かう船に乗ることであります。船長であるイエス・キリストを中心にして、目的地に向かっていくのであります。様々な考えがあるが、私たちは一つとなることができるのであります。それは、キリストがあるからであります。
同じ船に乗っても、信じる神概念が違ったり、船長の主が違ったり、目的地への辿り着く航海ルートが違ったりすると、混乱が生じ、船は大変な目に遭うでしょう。特に、困難が生じる場合、船が動かなくなってしまいます。 実は、船が動かなくなることはありません。動かなくなってしまうのは、波や風に流されることを意味します。そうであるなら、取り戻すことのできない事態になってしまいます。
今、私たちはまず神を求め、キリスト・イエスを求めて、そのお方に従っていくことが、これからの40年間を生きる最高の道であります。
「新しい名が与えられる」6月15日
ペルガモにある教会の御使に書き送る手紙の送り主は「鋭いもろ刃のつるぎをもっている方」である。手術において刃は悪い部位を抉り取るものとして用いられる。まさに、教会の腐った患部を取り除くために、今主は鋭いもろ刃をもって臨まれるのである。そのもろ刃は「神の御言葉」であり、「精神と霊魂と関節と骨髄とを刺し通す」(ヘブル4:12)のである。
ペルガモ教会にはバラムの教えとニコライ党の教えに奉じるものがいた。昔からそういう教会ではなかった。偶像の神々の中でも、その迫害の中でも、殉教に至る信仰を持っていたほど、死の恐怖があっても、主への信仰を捨てることがなかった教会であったが、今は変質された宗の教えと妥協する教会となった。
偶像の社会の中で、純粋な信仰を堅持するのは容易いことではない。多くの場合、真の信仰は社会・文化・歴史・偽りの宗教に同化されやすい。「不信仰と、つり合わないくびきを共にするな」(II コリント6:14)。
バラムとニコライの誘惑に勝利をするものには、隠されたマナを与え、白い石を与える。そしてその白い石にあなたの新しい名前を書かれてある。このことは、「ほかだれもしらない」めぐみです。神の恵みは、あなたに代わって誰かが味わうことのできるものではない。子供に代わって、親がやってあげるようなものではない。それはあなた自身がわかるものである。主とあなたとの間に起こる密接なめぐみであり、体験である。
「死に至るまで忠実であれ」6月8日
主が小アジアにある七つの教会に書き送った二番目の手紙は、スミルナ教会宛である。特に、主のお叱りを受けなかったスミルナ教会は、その言葉の意味(もつやく)が言うように、死に至るまで忠実であった。
発信人である主は、「始めであり終わりである者、死んだことがあるが生き返った者」である。主は世界とその歴史を支配し摂理し、さらに死んだこともあり、そこから生き返ったお方である。つまり、再び生きる事の回復を齎すことのできるお方としてあなたを見ておられる。
その主が「あなたの・・・知る」と言う。主はあなたのすべてのことを知っておられるお方である。知ることは、判断を下すことに繋がる。しかし、主とあなたとの間に、その知ることによる認識は異なる。
あなたは今苦難や貧しさの中にある自分を認識している。それであなたはその現実に死んでいるかもしれない。しかし主は今のあなたの苦難や貧しさを見て、あなたは富んでいるのだ、と認識・判断される。あなたの考えと主のそれとは違う。どちらが正しいのか。主の目には、すでにあなたは豊かなものである。
「最初の愛は、どこから落とされたのか」6月1日
主はエペソ教会に、わたしはあなたの行いと労苦と忍耐とを知っており、あなたが正統な信仰から離れた悪い者や偽り者たちを見抜いたことをも知っていると言う。
さらに、わたしの名のために耐え忍び、疲れるのも覚えずに頑張ったことをも知っていると言う。今の主のみ言葉を聞くと、到底真似もできないすばらしい正統な信仰と教理をエペソ教会は持っていたことがわかる。このことは心から学ぶべきものである。
しかし主はこの健全な正統的な教会に「責むべき事がある」、それは「初めの愛から離れてしまった」ことである。主を愛する心の無い忍耐や労苦や行いよりは、主に対する変らぬ熱愛が求められる。それこそ初めに主と出会った時のあの熱々しい愛から冷めてしまった信仰の正しさを求めない。
神の御臨在の燭台が取りのかれないように、まだ主との熱愛を体験していないなら、あるいは初めの愛を失ったならば、それを思い起こし、悔い改め、それを実行すべきである。勝利を得る者は木の実を食べる恵みが与えられると約束される。
「不平不満の毒は、あなたの人生の致命的害である」5月25日
不満・不平の毒は、あなたの人生の致命的な害である。聖書に現れるイスラエル民の典型的な姿の一つは、神様につぶやく事である。何度も繰り返しイスラエルの民は神の奇跡的なめぐみを目の前に体験しながらも、反抗しつぶやく。
コラの不満は比較から生じた、「皆同じなのではないか。あなたは分を超えている」というものである。コラの批判は、モーセとアロンに対してではなく、彼らを指導者としてお立てになった神様に対する批判である。なぜ、このような人を指導者として立てたのですか?という。教会における地位は、神からのものである。モーセに逆らうのは、神が定められた権威に逆らうことである。
さらに、比較とは自分に与えられた権威の重要さを軽く思うことから生じる。彼らにも権威的務めが与えられ、「小さなことではなかった」。にも拘らず、与えられた務めを忠実に仕えるよりは、まさに自分には何も与えられていないかのように、不平を言う。比較による越権的不満は、破滅であり、人生の毒である。主はあなたに必要なものを十分に与えられているのである。
「友よ、あなたを生き返らせなさい」5月18日
袋井北教会の改革は、聖書が言う初代教会に立ち返ることからはじまる。今、エゼキエルの谷間に散らばっているいたく枯れた骨は、誰でもなくイスラエルという選ばれた民である。枯れた骨は死んだ意味である。選ばれた教会が死んでいる。異邦人でもなく神に愛された民が死んでいる。
生き返ることができるかという主の問いは、生かそうとする神の意図がそこにある意味である。神は生かす。死んだ者でも、神に愛される者は生かされる。では、どのように行き返えらすのか。
まず、「主の言葉を聞け」ということから始まる。死んだ骨に語りかけることは無意味ではないか。しかし主の言葉に力がある。主の言葉がそうさせるのである。主の御言葉が語られたところに、聖霊の息が与えられる。ただ生き返るだけではなく、そこには生きる活力が与えられたのである。御言葉に関心を持つことは、生きることにつながる。
その結果、つまり生き返った結果は、「私が主であることを知る」ことである。選ばれた民がまことに神が主であること、生き返らせてくださったのが、神、主であることを知るようになることである。そして今度は、民は「兵士」となったのである(10節)。力のある者となり、生きるまことの武具を持つものとなったのである。
教会が生き返るのは、まず御言葉の復興がなければならない。御言葉のリバイバルこそ、聖霊のリバイバルにつながるのである。今、袋井北教会に必要なのは、この二つの点である。
「教会を新たにせよ」5月11日
常に改革する教会は改革派教会の基本姿勢である。改革は本来の姿を取り戻すことでもある。
第一に、あなたこそまことの生きておられる神の一人子、イエス・キリストですという告白を取り戻すべきである。ピリポ・カイザリヤというこの世の論理が支配する所で、主は問いかける。あなたはキリストのみがまことの神であり、救い主であると告白できるのか。
第二に、ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するのか。イエスはペテロにキリストのみを愛することを求められる。これもあれもではなく、イエスのみを愛し、イエスのみで満足するのか。イエスが好きでどうにもならない思いがあるのか。 第三に、わたしの父が約束されたものを送る。だから、上から力を授けられるまで都にとどまることである。つまり、上から力を与えられることである。 従って、教会の改革は、キリスト・イエスのみがまことの救い主であるという告白、だからあなたのみに満足し、愛する献身的愛、そして聖霊、つまり神の力が与えられるところに、実現できるものである。
「内的革命」5月4日
今、我らに求められる第一は、一個人の内的革命である。リバイバルはあなたの内的革命から起こされる。聖霊に満たされるとは、聖霊に導かれて生きることであるから、人生の変化を意味する。クリスチャンとそうではない人との違いを、あなたは判るのか?再生の体験!!!を持っている人は判るであろう。
一番目は、考えの革命である。これは神中心に考え判断していくことである。この世のすべてを糞土のように思うことである。エサウとイサク;サウロとダビデとの違いである。このように考えて判断するのは、神に喜ばれることであるのか、と常に問い続けて生きることである。
二番目は、霊的な革命である。これは御言葉中心、つまり御言葉の体験、祈りの体験、証人としての体験である。特に御言葉の体験は、あなたを霊的に変えて、成長させるものである。
三番目は、生活の革命である。これは教会中心である。教会は神の御国の地上的形である。そこにはすべてが在る。神様は、なぜあなたを袋井北教会に導きいれてくださったのか?知っているのか?
「人生の革命」4月27日
信仰は聞くことから与えられる神の賜物である。信仰によって恵みを多く受ける人は神の御言葉をただ知識の蓄えではなく、実践によって現れる具体的な知識を持つ。
だから、人生の革命というものは真理を知ることから始まる。「キリストの故に、すべてを糞土のように思う」とは、パウロの人生の大転換を現す。キリストの絶大さをただ頭で知ったのではなく、全人格をもって知ったパウロの告白である。
あなたの信仰の程度が、あなたのめぐみの水準を決める。御言葉を知って信じる程まで、あなたの考えも変えられ、それによって神の恵みを具体的に体験できる。
信仰者は民主主義に生きるのではなく、神中心に生きる。私たちは神を変えて自分に合わせようとするのではなく、わたしが神の御心に合わせて従って生きる者でなければならない。従って、恵みは非常に具体的である。福音を知っても具体的に神の恵みを体験していないなら、常に知識のまま残り続ける。信仰の生そのものであり、生きるそれ自体である。あなたの人生の真中にキリストの信仰を据えなさい。
「新しい歌をもって進もう」2008年4月20日
神の救いの恵みによって、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから故国に立ち戻ったときに、なぜ神の民であったにも拘わらず、異邦人の手の下で苦しめられ、悲しさを覚えなければならなかったのかという問いに深い反省と悔い改めに入れられた。そこで彼らは神殿を再建した。しかしゼルバベル神殿とも言われる神の神殿の再建後に、彼らの歴史はどうだったのか。一言で失敗であった。なぜか。彼らはなぜ失敗したのか。三つの点から言える。
1.感謝の回復がなかった。なぜ、救われたのかという自己確認がなかった。救われたこと、解放されてよかっただけで、なぜ回復されたのかを真剣に問わなかった。2.礼拝の回復がなかった。わたしを救い出してくださった神、解放の恵みに与らせてくださった神と出会いたい、つまり恵みを頂きたい切なさがなかった。3.神殿の回復がなかった。ゼルバベル神殿ができた。しかしまことの神殿回復はそこになかった。あなた自身が神の神殿であるその回復がなかったのである。「教会を建てる」のではなく、「教会を建てることのできる信仰者」になっていなかったのである。
感謝の回復、礼拝の回復、そして神殿の回復、この三つが伴われる時、「新しい歌」が口から流れ出る。心からの感謝と礼拝と神殿が再建できるとき、あなたの人生に、あなたの家庭に、あなたの教会にリバイバルが引き起こされるのである。人間の知恵によって教会成長や信仰を論じないで、まず回復せよ!あなたの感謝、礼拝、そして神殿をまず回復せよ!
「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕う」 2008年4月13日
萱間の地で初めて礼拝をささげることを、神様はお許しになった。この地で礼拝を守る意味は、主の御心によるものである。
伝道開始40周年の2005年から具体的に導かれて、数多くの恵みを与えられたのは、新たなヴィジョンへの神の教会的召命による。それは、大きく二つの召命である。一つは、この地域、この日本、この世界に、主の栄光のリバイバルを引き起こす使命である。もう一つは、教会と福音が中心となる医療宣教である。
この二つの両輪は、キリストのお働きにおいても示されたものであり、キリストの福音による癒しと、人間の医療による治療による全人救済を目指すものである。言うまでもなく、医療宣教は福音宣教を基礎するものである。だから、第一に重要なのは、福音宣教であり、これ無しには、医療宣教は虚しいものとなる。従って、御言葉への正しい認識と知識、それを基礎とする正統な熱く燃え上がる信仰が柱となる堅実な信仰の共同体の形成を祈り求めるべきである。今日の礼拝が、新しい歴史への一歩であることを覚えよう。
「神のみ前にまかり出て、み言葉に聞く」2008年4月6日
ペテロとコルネリオの出会い、これがどうして起こりえたのでしょうか。文化、差別、歴史、人種、宗教などを超えて、彼らが出会えたのは、ただ一つ、御言葉を聞きたい切なさと、御言葉を聞かせたい切なさであった。一言で言えばイエス・キリストという福音の故であります。
イエスの故に、今までも大事であると思っていたことを捨てきることのできる信仰的勇気がそこにあったのであります。新しい歴史は、そのような犠牲の上に起こりうるものであります。
さて、新しい歴史への準備はどうだったのでしょうか。コルネリオは、親族や友人を招いて、神の御前にまかりでて御言葉を聞こうと待っていたのです。『待つ』ことは、ただぼんやりして待つことではなく、心からの切実な願望をもって待つことであります。渇きを覚える者は、水一杯がどれほどの恵みなのかを知ります。渇きを覚えていない者にとって、それは捨てるに等しいものであります。
御言葉は渇きを持つ者に潤いを与えて、疲れ果てて死んだ魂を生き返らせるのであります。御言葉への渇きはあなたの魂の特効薬であります。
「み言葉が伴われるまぼろし」2008年3月30日
信仰生活、教会成長、福音宣教などにおける最大の敵は、外に在るのではなく、内側に存するとよく言われる。これは、信心深く神を信仰していると思っている者が、実はまったくそうではなかったということが在りうるという警告である。
「神がきめたものを、清くないなどと言ってはならない」という主の御言葉が示す意味は重要である。己自身の知識、習慣、経験、または慣わしによって、物事を判断していく当たり前のような信仰者の生活方式に対する主からの批判である。
わたしたちは何十年間、言ってみれば何の不都合無しに、前進も後退もないままに、やってきたことが真理であるかのように錯覚する時がしばしばある。
激しい変化に耐えられない信仰者になってしまっているかもしれない。聖書は「激しい変化」の連続でもある。十字架の出来事、復活の出来事、聖霊降臨の出来事、そして2000年間の不断の福音宣教の出来事などは、まさに劇的な変化の出来事である。それを感謝しながら、そのようなことを求めないずるい信仰を脱皮して、あなたの信仰を目覚めさせよう。
「宥めるキリストに、贖われるあなた」2008年3月23日
キリストはなぜ、死んだのか?なぜ死ななければならなかったのか。それは、罪の故、神から引き離されていた私たちが、神との結合に受け入れられるためである(コロサイ1:21-22)。キリストの死によって神は罪人である人を恵みの内に回復させてくださった(ローマ5:10)のであり、神と罪人との間における敵意を取り除いたのである。
さらに、死だけで終わるのではなく、そこからの復活によって、私たちを生ける望みへと導いてくださった(Iペテロ1:3)。死によって、罪は廃止され、死は消滅し、復活によって、義は更新され、命は立て上げられた。だから、復活のお陰で、キリストの死の効力が私たちにもたらされる。さらに、キリストの復活は、私たちが罪に死に、新たな命が与えられ、この命は誰も侵すこともできないものとして、永遠の命であることの保証、担保となったことである。従って、キリストの復活は、私たちの復活の最も確かな保証であり、担保である。
最後に、キリストの死と復活は、彼がまことの神で在られることへの確認であり、証しである。
「あなたに足りないところ」2008年3月16日
主イエス・キリストによって用いられる人は、選ばれた人であるが、それこそ様々である。人種も、職業も、国も、民族も、関係ない。コルネリオはユダヤ人ではなく、ユダヤ人の支配していたローマ人であった。所謂異邦人と言われる人であったが、「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、たえず神に祈る」ひとであった。これらが届いて、神に覚えられたのである。神に覚えられた人は、必ず救いの祝福に導かれる。特に、コルネリオが「午後3時ごろ」に主の御使いから言われる。教会が定められた祈り会において、主が現れたのだ。主が御自分の教会を愛しておられるから、その教会において語るのである。
そして、主は「ペテロと呼ばれる人を招きなさい」とおっしゃる。何という不思議であろうか。コルネリオのように信心深く、敬虔で、施しと祈りを常とする人に、もうこれ以上言う事なし!と言ってよいのではないか。あなたのそれは完璧だ、と言われない。だからあなたは救われたとも言われない。なぜ、彼にまた、「ペテロ」というものが必要であろうか。
御言葉であるキリストがなかったのである。キリスト無しの祈り、敬虔、施し、そして信心深さは、神に覚えられ、キリストへと導かれる手段に過ぎないことがココで分かる。キリストが無ければ、そのようなものは、実体のない虚しいもので終わる。あなたの救いのめぐみは「キリストのみに」ある。
最後に、コルネリオの即刻的従順に目をとめるべきである。キリストへのめぐみには、明日は存在しない。「今!」のみである。今がめぐみのときである。
「イエス・キリストがあなたを癒す」2008年3月9日
使徒行伝には多くの奇跡や癒しが記されてある。その根本的な理由は何か。なぜ主は奇跡や癒しをお与えになるのか。その答えは「みな主に帰依した」や「多くの人々が主を信じた」ということのためである。主の福音が宣べ伝えられ、主の教会が形成されていく時に、特別に主がそのようなめぐみの出来事を与えてくださる。
ところで、歴史の中で、今も奇跡や癒しは行われているであろう。そのようなものと、聖書が言うそれと何が違うのか。この答えも同様に、主に帰依する人、主を信じる人が与えられるのか否かである。
ではなぜ今の奇跡や癒しには、主に帰依することが伴われないのか。この重要な問題の答えは、「キリストがあなたを癒す」ことである。キリストご自身がお癒しになるから、分かり易く言えば、その癒され起き上がった人を見れば、そこからキリストが見られ、読み取られ、感じ取られるのである。キリストがハッキリと現れるところが、聖書が言う癒しなのである。キリストが現れるのは、人を主に「帰依」させる十分な力となる。キリストのみに栄光あれ!
「こうして教会は・・・」2008年3月2日
「こうして教会は、…平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。「こうして」とは一つの結果を現している。何の結果か。それはサウルの回心、アナニヤの従順、そしてバルナバの世話であると言える。この三人を教会の歴史に浮き彫りさせたのは、他でもなく神の聖定による摂理である。この神の摂理に、三人は結果的に従順に従ったのである。「こうして」とは、神の摂理への従順の結果である。
「こうして」、つまりその結果、平安が保たれる。神との関係が深められたことである。平安は神との関係による。その関係がしっかりと結ばれるとき、言うまでもなく、わたしたちの基礎はかたまる。神との正しい関係無しには、基礎は据えられない。そして、この土台から沸き起こるのは、神への恐れと聖霊の励ましである。この恐れに何も付け加えずに、そのまま受け入れよう。わたしが神を恐れる時、逆に神はわたしを励ましてくださる。恐れのないところに、神のご臨在はないであろう。そしてその総体的な教会の姿は人々への伝道になることに他ない。
「第一人者のための、第二人者の喜び」2008年2月24日
パウロが伝道者として神に選ばれて、イエス・キリストとの劇的な、しかし一方的な出会いによって、キリストの者となった。アナニアによる、多分3年以上の信仰的訓練を通して、パウロは宣教的説教を宣布することができるようになった。それにしても、教会の承認が必要であることは言うまでもない。エルサレムに上り、すでに使徒となった者たちによる承認を求めるパウロであるが、誰も認めようとしない。
そこに主はバルナバを選んでおられる。このバルナバ、主の霊と知恵に満ちた穏やかな人である。パウロの伝道には、アナニアだけではなく、バルナバをも選ばれてあった。バルナバによがって、パウロはエルサレムの教会から認められる者となった。
もし、アナニアと同様に、バルナバがいなかったとすれば、パウロの伝道人生はどうなったのか。バルナバは、パウロを立てる人であり、それは教会を立てることであり、それはさらに神の宣教を立てることであった。パウロのような人生もよいのであるが、バルナバのように、人を立てる人生もよいでしょう。第二人者になる喜びを味わいましょう。
「イエスはキリスト、神の子である」2008年2月17日
パウロは、キリストと出会って後、アナニアの導きと指導の下、アラビアに行った。アラビアの何処なのか、そこで何をしたのか、幾日ほど滞在したのか、分からない。推測してみると、アラビアのシナイ山で、約40日間過ごしたのではないかと思われる。モーセが律法を与えられ、エリヤが祈り、キリストが誘惑されたところ、まさに律法の約束が与えられた所で、律法の成就の福音をどのように宣べ伝えるのかを祈り求めたに違いない。
ダマスコに帰ってきて、約3年間そこの教会で信仰生活をした。福音のみ言葉への研鑽、約束を待っていた者が、その約束がすでに成就された福音を伝える者として持つべき御言葉の知識を学んだのである。「ただちに宣べ伝える」ことは、そのようなことを必要とされたのである。3年の御言葉への研鑽は、聖書の著者としての基礎を造るものでもあった。
彼の口から最初に発せられたのは、イエスこそ神の子であるということであった。パウロ自身が今まで持っていた神の子に対するすべての期待を、イエスから見出したのである。旧約を通して、キリストを見ることができた。キリストを通して、旧約を理解することができたのである。イエスこそまことの神の子、キリストであった。この一言を伝えるために、パウロは3年以上の年月を費やした。それは、頭で知るものではなく、心に注がれた主との出会いと恵みを、頭において確信する作業でもあった。心にある熱い信仰を、他の人に福音として伝えるためには、そのような訓練が求められるのです。
「元どおり見えるようになり、元気を取り戻しなさい」2008年2月10日
パウロの偉大さはいくら言っても足りない。それほど神に愛され、用いられた人であっても、彼にはアナニアが必要であった。主はアナニアを通して語り、聖霊を与え、目から鱗を落とさせた。主は直接語らない。主のお体なる教会を通して語られる。
アナニアを通して、主はパウロの目から鱗を落とさせた。それで元どおり見えるようになったという。しかし元どおりであるが、仰ぎ見るようになった。イエス・キリストがまことの神として仰ぎ見られたのである。今まではそれが見えなかった。
そして食事を「取った」。まさにそれは命を取ったということである。単なる食事を食べたのではなく、命を取る、命を食べる日々となった。主のみ言葉こそ、まことの命のパンである。それを取るようになった。
結果的に、元気を取り戻した。それは強力な力に在って、力付けられることである。オリブ山でイエス様が祈られた時、み使いが力づけたように、外から力付けられる恵みに与る。パウロの出来事は、あなたにも起こったはずである。今も主はみ使いを遣わして、あなたを力付けておられることを信じますか。
「追いかける、逃げる人間」2008年2月3日
神様はニネベの罪をご覧になり、ヨナを遣わして裁きの言葉を告げさせようとされる。しかしヨナは神に拒み逃げる。しかし、神は彼を救い出し、二度目に、臨まれる。不従順であり、拒み続けるヨナを再び探し求める神である。神は選ばれた民を見捨てるお方ではない。常に赦して、受け入れてくださるお方である。
ヨナはたった五つの言葉で、ニネベの民に告げる。それも一日だけ。しかし、その結果、ニネベの住民全体が悔い改めて、神に立ち返り、救われることになる。
伝道の困難な時代に生きているとよく言われる。しかし、伝道には二つの側面が存在する。一方では、伝道は神がなさる神の働きである。伝道の結果は神によって生じられる創造的なものである。他方では、その神の業である伝道に、ヨナが必要であったことである。
伝道は、神のみわざであるが、その神はヨナを用いて、それを実行される。神は今日も、あなたを必要としておられる。神は、あなたの告げる言葉を通して、その結果を生じさせる。宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができるだろうか。
「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」2008年1月27日
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」、これがパウロの福音であった。わたしの福音とは、非常に主観的な表現である。信仰とは、確かに主観的な面を持つ。後半の「いつも思う」ことは、主観的な行動である。自ら何かをしようとする自発的な行為は、聖書において求められる重要な信仰である。実に、私たちの信仰生活の問題の一つは、その主観性、つまり能動性が乏しいという事である。求めること、門を叩くことは、あなた自身がしなければならない主観的行動である。
ところで、その「わたしの福音」とは「ダビデの子孫として、よみがえった」という客観的事実に基づくものであることが言われる。信仰の主観性は、聖書的事実を根拠にする客観的出来事に依拠しなければならない。信仰の「霊的」とは、聖書的根拠を無視する行為ではない。聖霊充満は、聖書のみ言葉による充満であるからである。パウロの私の信仰は、客観的に、歴史的根拠に基づいたイエスを、主観的にいつも思う能動的信仰であったのである。
「キリストにある恵みによって、強くなりなさい」2008年1月20日
本文には、強くなることとゆだねることが命令形として語られている。キリストに在る恵みに在って強くなることは、キリストを離れても強くなり得るという前提があるかのように見える。そうではなく、キリストに在って強くなることが求められている。キリストを離れても、強くなり得ることができるかもしれない。それはあなたから見てそうであって、キリストから見てはそうではない。キリストから見て、強くなることが求められる。
次には、ゆだねることにつながる。牧師であり教師から聞いた信仰の教理を、別の人にゆだねることである。そうすることによってゆだねられた人が、また他人にゆだねることができる。伝道の原点が教えられている。委ねことは、信頼を基礎にする。信頼される人に、福音が委ねられる時、福音が広がる。
さらに、キリスト者、特に伝道者は、兵役、競技者、そして農夫として譬えられている。司令官である神のみに従うこと、規定を守って協議する聖書中心であること、そして労苦することによってその産物を最初の与えられる農夫は、聖霊の実を与えられることである。神中心と聖書中心、そして聖霊によって喜びの実りが与えられる生活が求められている。強くなり、そして福音の教理を委ねていくことは、兵卒・競技者・農夫のように神のみに仕え、聖書に忠実であって、聖霊の喜びに与る事である。主があなたをそのようなめぐみに呼び出されておられることを感謝しましょう。
「良い忠実な僕よ、よくやった」2008年1月13日
主人は僕たちにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントとまったく量の違うお金を渡された。そして5タラントと2タラントの僕は従順にその賜物をもちいて、2倍にして主人に返し、主人を喜ばせた。しかし、1タラントの僕は賜物を地に隠し、主人から受けた「賜物」を大事に思わなかった。その上自分が賜物を用いなかったわけを主人のせいだとまで言う。ここに多くの罪がある。主は私以上に私を知っていてくださり、私の能力に応じてふさわしく賜物を預けて下さいます。預けて下さるのは私を信頼してくださるからであり、愛してくださるからであります。
この賜物を私たちがこの世における目的 -主の福音を宣べ伝えること― に用いて働いていくならば、もっと多くの祝福と恵を増し加えていって下さるでしょう。主なる神様はそういうお方です。共に私たちと働いて下さいます。
今年、私たちの教会は全体で一つの働きができるよう、一人ひとりに役割が与えられました。この年末、「良い忠実な僕よ、よくやった。・・・多くのものを管理させよう。」と共に神様から祝福されましょう。(説教者:石飛)
「たましいを完全にし、不動にする錨である望み」2008年1月6日
2007年1月6日新年感謝礼拝は、昨年守られた事を感謝、今年与えて下さる神様の恵みを先取りして感謝と讃美をささげる礼拝であると言うことができる。特に、今年、主が私たちに与えて下さろうとすることに恵みに信頼していきることが何より重要である。
主の約束を信頼して生きることは、希望を持って生きることであり、パウロの言葉で言うなら「目標を目指して走る」(ピリピ3:14)ことである。今年のあなたの人生の目標、家族の目標、教会の目標は何でしょう?それを最後までしっかりやり通すものであってほしい。本文には、「約束」、「誓い」、「必ず」、または「望み」などの言葉が頻繁に出ている。それは、神様があなたに約束を与えて、それを必ず成就してくださると誓われたことである。それを望むことこそ、真の望みである。
だから、あなたの人生の「錨」はその望みである。この望みこそ、あなたの魂を今年も「安全にし、不動にする」ものであり、生きることの「力強い励まし」となるものである。今年、袋井北教会にとって、不動で、力強い励ましとなる望みは何であるのか。それの実現のために、愛する兄弟姉妹と一緒に一生懸命にやっていこう。
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