2007年

「弱さを、身に負う神」20071230

「こういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成をめざして進もうではないか」。沈滞、スランプ、意気消沈、あるいは停滞などは、被害意識、否定的考え、比較意識、あるいは過去に縛れていることの原因が多い。聖書は、初歩的なことを後にして、前進することを呼びかける。 07年度、沢山の恵みを、神様から頂いたなら、その恵みを生かして、さらなる目標に向かって前進して、成長して行こうではないか。前進と成長する力はすでに与えられている。聖霊に導かれて、知恵を求めていくなら、その道は与えられる。 そこで聖書は答える。「更に良い事がある」。それは「同じ熱意を示して、怠ることなく、約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となる」ことである。初歩から離れて、前進と成長によって最後の恵みに与ることは、兄弟姉妹の交わりに生きることであり、そこから学ぶことであると聖書は言う。あなたが袋井北教会に導かれた理由は何でしょう。確かな事は、そこにあなたの人生の目的と目標があるということなのである。だから、この教会の交わりにおいて、あなたは成長し、その道が与えられるのである。

「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けなさい
20071223

 今日は、洗礼式と入会式のめぐみが神様によって当教会に与えられている。今日の聖書は「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となる」と言う。
 与えられた以上、それを宝物のように守り続けることは、私たちに求められることである。このような警告は、「あなたがたの中に・・・不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者」がいるからである。教会の中にそういう者がいるということである。
 しかし、生ける神を信じるという最初の決心から、離れていかないためには、「日々、互いに励まし合う」ことである。これは、教会の中の交わり、集い、祈りを大事にすることである。
 従って、教会の中には、「悪い心」を持つ者もいれば、あなたを「励ます」者もいるということである。
 つまり、教会における集いと交わりから離れることは、生ける神から離れることである。二人の兄弟が、集会をやめようとする人のようにではなく、常に教会の集いの交わりにおいて、励まされて、ますます生ける神の恵みに生きることを、心から祈り求める者になるように祈り求めよう。
 イエス・キリストは誰なのか?「神は御子を万物の相続者と定め、御子によってもろもろの世界を造られた」とある。創造の実質がキリストであり、万物の主

「御使いたちの名にまさる名2007129

 イエス・キリストは誰なのか?「神は御子を万物の相続者と定め、御子によってもろもろの世界を造られた」とある。創造の実質がキリストであり、万物の主人である。「いったい、この方はだれだろう。風と水も従うとは」と不思議に思われたのは、彼が創造者であるからである。だから、イエスは「栄光の輝きであり、神の本質の姿」である。しかし、この世の人々は、この神であられるイエス・キリストを知ろうとしない。というのは「この世の神が不信の者たちの思いをくらませた」からである(IIコリント4:4)。世の神々に操られ、心が濁られて、真の神を見ることも、見ようとしないのである。そこからの解放、真の自由が必要である。なぜなら、その終局は死だからである。
 キリストは御言葉をもって万物を保っておられる方であり、罪をきよめることのできるお方であり、今も神の右に座しておられる神である。保つとは支えて何処に導くことである。だから、あなたをきよめて、御言葉によって導くお方です。すべての権能をもっておられるから、今から後、どんなモノをも、あなたをキリストから引き離す事はできないのである。


神の御子を知ろうとしない者」
2007122

待降節を迎えました。主イエス・キリストがこの世に来られるのを待つ季節です。無論、すでに来られてそのなすべき贖いと救いの業を成し遂げられました。待降節を迎えると、常にイエスがこの世になぜ来られたのか、というすでに分かっている問いを問い直してみる習慣的な問い掛けをします。
 なぜでしょうか。答えはお分かりでしょうね。「罪」の問題です。それを「断絶」とも言います。神と私との断絶です。私とあなたとは本来、神に通じ合って、神から来る真の糧と命の水によって生きるべき存在です。が、その神と私との間に「断絶」が生じ、その給食と給水が途切れてしまったのです。結局、人間は本来の姿から離れた異質的なものとなってしまったのです。重大な問題(罪)が生じたのです。何とかしないとこの伝染病に誰もが死んでしまいます。神とあなたとを遮って中垣を取り除き、そこに円満な通路を造るために、キリストが来られたのです。唯一の仲保者です。

 さらに、主にあって新しくあなたを造り直してくださるためです。ただ罪の問題を解決するだけではなく、二度とこんな問題に陥らないように、ただ新しく造ったのではなく、キリストにあってあなたを造り直してくださるためでした。

あなたは、わたしが選んだ者である」
20071118

 神に選ばれるとは、一体どういうことでしょうか。選びの教えは人によって、確信を与える恵みであり、疑いの躓きにもなります。パウロは救われてから、神様がどれほどの恵みを用意して与えて下さろうとなさったのかを悟り、「天地の造られる前から選んでくださり」と告白しています。この告白は、彼がイエスを信じるようになってから、恵みによって悟られた結果であって、原因ではなかったのです。神の選びは、人知を超えたものであるから、神からの恵みによってのみ知りうるものであります。救われる前にそれを論じることは、無意味であり、躓きとなります。
 マタイ伝15章にカナンの女が、主よ、ダビデの子よ、私をあわれんで下さいと言った時、イエスは彼女を退くような発言をします。この段階では、彼女は選ばれてないかのように見えるところです。しかし、何度もお願いをしたら、イエスは「あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いとおりになる」と言われます。ここに選びがあると言ってよいのです。選びは、神様を必死に求め、愛していく中で確認できるものであります。そこで選ばれるのではなく、その信仰において、自分の選びを確認できることであります。

第一を創り上げる第二の人生」
20071111

アナニヤとパウロとの出会い。アナニヤは律法に精通している。律法主義者ではなく、律法の本質を知る人であった。だから、彼は律法が究極的に指し示しているイエスと出会い、キリストを信じる者となった。彼は9章だけに現れている聖書の人物である。
 他方、サウロ、ギリシャ語でパウロという人は律法主義者であった。彼は律法を守る事によって生きる人であった。さらに、彼はアナニヤと正反対に、極端な出会いによって、イエスと出合った人である。主が突然彼に現れて下さったのである。
 ところで、このような正反対の二人が、主によって遭遇する。問題は、なぜパウロは、アナニヤと出会わなければならなかったのかである。パウロがこれからすべき事柄は、アナニヤから聞かなければならなかったのである。なぜ、主は直接パウロに現れたように、直接彼に言うべきことを言わなかったのか。
 主は人を用いて、御自分の計画を実行なさる。神に用いられることは、神の計画に与ることである。パウロはアナニヤがあって初めて伝道者となり、世界伝道に旅だったのである。パウロは彼を一生忘れなかった(22章)。

変わることを恐れる現代人」
2007114

戦馬が息をはずませるように「脅迫、迫害の息をはずませるサウロ」がここにいる。何が彼をこのような殺意を持つまでに、一つの宗教に没頭させたのか。人を殺しても何とも思わない人。人を倒して、自分を立てる人。人を苦しめることによって、自分の正当さを覚えるサウロである。このようなことを「律法主義者」であると言う。しかしサウロはキリストに捕われて、クリスチャンとなる。熱心さでは、一見、前とまったく同じように見える。違う点は、前は、他人を殺してでも、必死に自分の律法を守ろうとしたが、今は、自分を殺してでも、他人の命を救おうとする人となった事だ。相手を倒して、自分が立つか?あるいは、自分が倒れても、他人を永遠のめぐみ、福音に導くか?この違いである。パウロは、徹底的に前者から後者へと変えられた。いや新しく造られた者となったのだ。

律法主義から恵み主義への転換は、この世の中でもっとも美しい話である。今わたしが「在る」のは、何かを守る事によってではなく、「神のめぐみ」によってである。私に対する神の恵みを思うと、私は死んでもよいと、彼は告白する。

人生のリフォーム」
20071028

神はこの世界を造られた。神の創造によって、歴史は始まった。しかし、この普遍的歴史の中に、もう一つの特別な歴史が、神によって始められた。それは、普遍的時間の流れにおいて「堕落」に堕ちた人間を回復する特別な歴史である。 無論、この特別な歴史を造らなければならない義務や責任などは、神にはけっして存在しない。それは、神の自発的行為、聖書の言葉で言えば、「愛」の歴史であった。
主に、アブラハムから始まると言われる「愛の歴史」は、一人堕落した人間の「変化」、「回心」、もっと的確に言うなら「再創造」、つまり「生まれ変わる」を意味する。人生が新たにされることによって、「愛の歴史」は始まる。 アブラムがアブラハムに、サライがサラに、ヤコブがイスラエルに変えられることである。名前の変化は、人格の変化を現す。サウロというユダヤの呼び名から、自らパウロというギリシャの呼び名への切り替えは、まさに異邦人への伝道に、自分のすべての人生を注ぎだすことを現している。変わることは、根こそぎ変わる時に、あなたの愛の歴史は始まるであろう。

あなたはイエスキリストを知っていますか」20071021

イエス様はどういうお方ですか。イエス様は「わたしは〜である」であるとヨハネの福音書に、教えておられます。自分勝手は思いではなく、イエス様が紹介するイエス様を覚えよう。
 1. わたしは命のパンである(635節)。パンが生きるに不可欠であるように  、イエスはあなたの人生にとって不可欠です。
 2. わたしは世の光である(812節)。光があなたの行くべきところを照らす  ように、イエスはあなたの真の道を照らします。
 3. わたしは在るものである(858節)。私はあってあるものであるという旧  約の言葉がここに言われるのです。永遠者です。
 4.わたしは羊の門である(107節)。そして、わたしはよい羊飼いである
  (
1014節)。何処か行く時、門を通ります。イエス様はあなたが通るべ  き門です。その門の出口にまっておられるよき羊飼いです。
 5. わたしはよみがえりであり命である(112節)。この地上がすべてではあ  りません。後の永遠の命の世界があります。
 6. わたしは道であり、真理である(146節)。人生の真の道はイエスです。  この道から外れる事は、とても危険です。
 7. わたしは、まことのブドウの木である(151節)。あなたもその枝です。  木から離れては生きる栄養分をもらえません。だから、しっかりとクッツ  イテ生きましょう。


自分が学んで確信したところに」
20071014

ピリポとエチオピア女王の宦官との出会いが、早くも初代教会の活動として書き記されてある。神の摂理によって散らせられたエルサレム教会が経験しなければならなかったのは、まず「サマリア」、次に「エチオピア人」との出会いであった。
 エルサレム教会、あるいはユダヤ人にとって到底理解できないことが起こったのである。使徒行伝は聖霊行伝であるとよく言われる。聖霊の働きが書き留められたのである。聖霊、神の働きは、時には、人間の考えや常識を超える形で現れる。
 クリスチャンになることは、革命的なことである。まさに台風によってすべてが壊され平になるような事柄である。だから、キリスト者の行伝も、革命的である。
 その革命的な変化はキリストによるものである。キリストは革新的なお方であると言って過言ではない。あなたの人生を革新させるお方である。
 その方は、「わたしに従ってきなさい」と言われる。従う者は、そのお方の言葉を慎重に聞かなければならない。私的主観によって、主に従わないように注意しましょう。主の言葉があなたの人生を革新させるのである。


聖霊による洗礼は聖霊充満である」
2007107

バプテスマヨハネは、悔い改めに導く水によるバプテスマを施しながら、「聖霊によってバプテスマを授ける」私より力ある方が来ると預言した。しかし聖霊の洗礼を授けるはずのイエスも、ヨハネの水のバプテスマを受けた。イエスは水の洗礼を受けることによって、ただの象徴的な水の洗礼を、悔い改めによる救いを得させる実質的ものとしたのである。さらに、イエスが水から上がると、聖霊が下ったのは、心からキリストを信じ洗礼を受ける者の上に、聖霊が下る事である。
 さらに主は聖霊を受けた主の民11人各自にふさわしい賜物(霊の力)を授ける。使徒、牧師、教師、預言、奉仕、教え、権威、治める、施し、癒し、伝道、異言、信仰、愛、希望などを与える。これらの賜物は、教会のために、教会の伝道と宣教のために、神によってあなたに与えられた「霊的力」である。だから教会の徳を高めるために、其々に与えられた賜物を感謝をもって用いるべきである。特に、伝道し教える賜物を求めるべきである。人を悔い改めに導き、キリストの恵みに与らせるのが、教える力である。最後に、その中で一番は神からの「愛」であることを心に留めよう。


「幸せを見付けた者 2007年6月24日

ルカによる福音書191-10

イエスについて、あるいは神についてではなく、イエスに出会い、神と出会うことが大事である。キリストについて話を聴くことはあなたにとって無益である。ザアカイは“ついて聴く”ことから、“直接出会う”恵みへの転換を試みる。彼はイエスと出会うために、幾つかの障害物を乗り越えなければならなかった。

まず心理的障害である。ユダヤ人でありながら、ローマに仕えて税金を取立てる収税人であるから売国者、不正腐敗などの非難から来る心理的障害。身体的障害。お金持ちではあったが背が低い。背が低いというコンプレックスがあり、外に出ることを好まない。環境的障害。イエスへの道は群衆に遮られた。親戚、友達、また隣人などの妨害はある。

このような障害を乗り越えて「木の上に登った」時に出来事は起こった。障害物を克服して登った時に、そこにあるのはキリストの御声であった。イエスの方から先に声をかけられた。それこそイエスがわたしの心に、私の家に来られることである。これこそ神の不可抗力的恵みである。恵みは神から来る。しかしイチジク桑の木に登ったときです。これこそ今まで味わった事もない幸せであった。すべてが満たされることが起ったのである。

 

「この世を変える人々 20076月17日

ローマ人への手紙91-5

ステパノは執事であるが、聖書は福音宣教の殉教者としての彼に注目を注ぐ。教会のディアコニアの究極は福音宣教である。福音はよき知らせである。この世の中でただ一つの、あなたを生かすことのできるものである。人を生かし、変えさせる力が福音である。40年間歩けなかった人を歩かせたのは福音の力である。だから、福音を伝えないなら、わざわいである。死に掛けている人を助けないのは、その人を殺すことと同様である。誰にでも死の症状は現れる。あなたが悩み、病む自体が死の症状である。それでも人間はその病気を治そうとしない。痛み止め薬を服用しすぎて、その病気を忘れている。福音を宣べ伝えることは、人を死から命に変えることであり、この世を変えることである。

私たちは練習していきることができない。明日のことを生きてみて、良かったら生きていくことはできない。一回限りの人生、その最後は審判が待っているだけである。あなたの愛する人は今大丈夫でしょうか。その人の人生の向きをあなたのために死んで下さったイエス・キリストに合わせましょう。


「天の門が開かれる祝福
 20076月10

使徒行伝7章54-60節

キリストを信じることは、祝福だけではない。イエスは苦難と死を通られた。ステパノも聖霊と知恵と信仰に満ちた者であったが殉教されねばならなかった。なぜ艱難か。罪によることもあるが、神の摂理によるものが多い。ステパノの死は神の深い計画からのものである。この世の果てまで広がるべき福音がエルサレムに停滞していた。それを超えさせる動機は、ステパノの死であった。

しかし彼の人生は意味のない神の道具となったのではない。(1)彼は天使の顔であった。これは多分、後にパウロのクリスチャンたちへの証しによるものであろう。打ち殺す人が見ても、殺されつつも天使の顔であった。(2)天の門が開かれる祝福に与る。天の門はすでにあなたのために開かれてある。しかし開かれてあるのが見えない。聖霊によらなければ見えない。ステパノはそれが見えた。(3)キリスト・イエスが立って迎え入れてくださる祝福。あなたのために座しておられない。立ってあなたを見守る。あなたのために主は立って、応援しておられるのである。(4)永遠に死なない祝福に与る。眠りについたのである。神は愛する人に眠りを与える。「息が絶えた」(5:5)ことではない。眠りつく。それで目が覚めて主と共に生きるのである。


「教会が前進していく中で 20076月3

使徒行伝6章1-6節

教会にも問題は起こる。教会には問題は起こらない事はない。それでも教会は歴史を貫き通している。なぜか。人々は問題が起こると問題そのものを解決しようとする。なぜ解決しようとするのか、それはその問題を解決したいから、というのが一般論理である。

教会が問題を解決する方式は、「神のみ言葉を差し置く」ことができないので、問題を解決する方式である。み言葉をないがしろにする事ができないから執事をたてたのである。教会からディアコニアの思想は始まった。病院、学校、福祉など。しかし今やそれらは教会から離れている。神のみ言葉中心であるべき仕事が人間中心の仕事となったのである。この世の活動は人間・私中心である。初代教会は神のみ言葉中心であった。

御言葉は創造の力があり、あなたに新たな命を与える贖いの力がある。真に我らを生かすものはみ言葉である(ヨハネ663)。この世は未だに問題を解決できていない。教育の問題、病気の問題、死の問題など、この世は頑張っているが問題は依然と残っている。そこに主がおられない、問題の核心にみ言葉が生きていないからである。あなたが務めを持つ事、職業を持つ事は、単純に生きるためではなく、主のみ言葉に生きるためである。

「あなたの幸せのために 20075月27

詩篇1074-9

この世の人々は、「人無き荒野をさまよう」のが人生であると言う。周りを見渡しても、そこには誰もいない。常に、一人である。だから一人で、この荒野のような世を生き抜くために必死に現実と戦う。結局は現実に囚われた身となって希望もなく、生きる未来の約束に盲目になってしまうのがキリスト無き人々である。しかし、すでに世に勝っておられる主は、御自分の民カナンという約束を与えられた。つまり、人間は、その約束から目を逸らす時、私たちは孤独に襲われるのである。

主は愛する者に勝利と望みを与え、その希望を仰ぎ見つつ生きるようとする。そしてすべての敵から守ろうとして、あなたの周囲に「火の戦車と火の馬」を満ちさせて、その希望に生きるように力を与えておられる。神の約束も、あなたのための火の戦車も、火の馬も見えないのは、現実の虜になっているからであろう。

万軍の主なる神は、あなたが救われ、恵みと望みの内に生き、やがて主と共に神の御国で永遠に生きることを楽しみにしておられる。「主を待ち望む者は新たな力を得る」(イザヤ40:31)。待つ事は信頼と愛がなければできない。主の約束を信じれば、毎日新たな力によって、あなたは強く生きる事が出来る。

「私はあなたに勝利を与える 20075月20

サムエル記下81-18

人生は戦いの連続である。次々と立ち向かわなければならない問題が出て来る。激しい競争社会に生き残るためには、勝利の人生を求めなければならない。勿論、勝組と負組に二分化して理解しようとする現代的理解ではなく、真に生きるという意味において私たちは戦いを受け入れ、勝利の人生を願うべきであろう。このような肯定的人生観において勝利の恵みに与った人は沢山いる。ダビデが典型的例である。なぜ彼は勝利の人生を歩む事ができたのか。1.神が共におられることを信じた。少年であるにも拘らずゴリアテを恐れる事もなく、神のために戦った人である。それはただ心で神が共にいることを思っていただけではなく、それを信じて行動する人であった。「万軍の神、主が彼と共におられたから、彼はますます大いなる者となった」(5:10)。2.神に問う信仰をもっていた(5:19,23)。神に問うてから決める。人生の行路には決断を迫られる時が多い。その時、神に問い続ける信仰が求められる。3.神のご臨在を絶対的に求める信仰であった。6章は神の箱へのダビデの愛着心が現れる。あなたの人生にも、家庭にも、神をそれの主人として迎え入れることは如何に祝福に満たされることでしょう。4.神の神殿を求める信仰。7章では「私は香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋にある」から始まる。ダビデのこの純粋な信仰はどんな形によっても批判されてはならないであろう。このような生き方が彼の人生を勝利に導いた原動力であった。世界が神から与えられたものであり、そこに戦いがあるならば、当然のごとく神を信じる信仰によって生きるべきであろう。信仰を持って立派に戦い抜こうではないか。


「いつも、どこでも、あなたから離れられない 20075月13

使徒行伝533-42

この世はなぜキリスト・イエスによる福音を嫌うのか。「あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、イエスを導き手として救い主として、御自分の右に上げられた」という福音。簡単に言うと罪を赦して新たに生きる喜びを与えるのが福音である。であるのに、福音は常にこの世から迫害される。では、この世はこの福音よりももっと力あるものなのか?福音を迫害している人をみよ。彼らは40年間宮の門の前に座っていた人に人を生かし再び真に生きる希望を与え喜ばせる事ができたのか?できなかった。40年間自分たちの前にいた足の利かない人に何もして上げられなかった。しかし、福音は彼を生かすことができ、歩く喜びと希望を与えることもできた。それでもこの世は福音を迫害する。彼らは怒りに燃えて福音を殺そうとする。この殺害の最中に福音は置かれたのであるが、使徒たちはそれに足るものとして、漏れなく主の御言葉を宣べ伝える。今、かたちは違うが、私たちもそのような迫害の中にあって福音を信じている。あなたの福音活動によって横の人も、また次世代の人も、主に導かれ、福音は永遠に続くのである。


人に従うよりも、神に従う 20075月6

使徒行伝517-32

福音に対するこの世の態度は「気を苛立て」(4:2)、「嫉妬の念に満たされて」(5:17)、「激しい怒りのあまり殺そう」(5:33)益々エスカレートしていく。

使徒たちは二度目、捕らえられ獄に入れられた。弟子たちが福音を宣べ伝えてから間もなく迫害は始まった。福音は迫害の道であったが、弟子たちは逃げようとしなかった。神は生きておられ彼らを助け出した。福音が迫害の連続であるにも拘わらず、福音を「漏れなく、人々に語らせる」ために奇跡的救出を与えられた。福音を伝えれば伝えるほど、迫害が深刻になっていくにも拘わらず、神は弟子たちに福音を語らしめる。

奇跡的癒しも、治癒も、救出も、すべて福音を宣べ伝えるためであった。弟子たちも神に従った。福音宣教すれば、自分たちの身に何が起こるかわからない。それでも彼らは語り続ける。「夜明けごろ」から教えを始めた。

この世の迫害は昔も今も変わることなく続く。この世の人々は「あの名を使って教えてはならない」と厳しく圧迫する。しかし弟子たちは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と告白し、神の栄光を褒め称えた。「罪のゆるしをあたえる」神の力である福音を迫害の中で宣べ伝える袋井北教会でありたい。

ヤコブは何を見たのか 20074月29

創世記2810-22

「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ9:13)。しかし神に愛されたヤコブの人生はバラ色のものではなかった。逃亡する人であった。逃れる人生の中で彼は夢を見た。その夢で彼は何を見たのか。

地の上にたって天に達する梯子を見た。天に達しようとする人間の試みはいつもある。典型的例はバベルの塔である。しかし人間は自力で天に達することはできない。それは神によってのみ与えられるものである。つまりキリストである。キリストのみが天と地に繋ぐ唯一の梯子である。この方によってあなたは天に導きいれられる。

次はその梯子を上り下りする天使たちである。天使は神に服従する被造物である。そこから私たちはこの梯子の真正性を見る。つまりこの道のみが確かな命への道であり、天への道である。

最後にヤコブが見たのは、立って言われる主を見たのである。主は常に御言葉を語るお方である。だから主は常にあなたに語りかけるお方である。御言葉に聞くことは、神と出会うことである。その御言葉にキリストがあり、そのキリストこそが真正性をもつ、唯一の救いの道である。そのキリストは常にあなたに語りかける。それによって神に出会う。

放蕩息子-自分勝手な人生 20074月22

ルカによる福音書1511-32  

なぜ次男はお父さんから「分」をもらおうとしたのか?人の所有欲は限りがない。物であれ、人であれ、何でも人は自分のモノにしようとする。そこに人間の悲劇の始まりがあると言ってよい。

なぜ彼はお父さんの所から「遠くへ行った」のか?「分」をもらうところまでは、出て行く気は無かったかもしれない。しかし人はちょっとしたものでも自分の「もの」があれば、それを拠り所にして、神から離れようとする。アダムにほんの少しの善悪を知る知識というものがあった時、神から離れようとした。

一人では絶対生きて行けないという自明な事があるにも拘わらず、人間は干渉されたくない、支配されたくなくて離れる。恵みによる支配であっても、支配されたくないと人間は思う。

では「本心」にいつ立ち返られるのか。人はほぼ「死」の状態(17)になって初めて神の存在と神と共にいきるめぐみを悟る。本当にほぼ死ぬ状態に至らない限り神を求めない。兄は何なのか?父を愛する心もない。神に求めることもしない。神を自分の生活に生かそうとしない。

弟は悔い改めて立ち返ってくる人への父の無限的愛を表す。しかし兄は、習慣的信仰は持っていたとしても、心から神を愛して仕えない。

教会には主の不思議なみわざがある 20074月15

使徒行伝512-16  

教会が起こされ、歴史の場でその具体的な姿を現す始めた時著者は「教会」という用語を使い始めた。その直後「使徒たちの手によって」多くの奇跡としるしがあったと書き記した。教会が始まろうとする時にそこには主の恵みによって奇跡がある。不思議な業が教会には存在する。この事実を確認し、感謝をもって受け止め、私たちの教会にも奇跡としるしが与えられることを確信をもって祈ろう。

では教会を建てる時、神は誰の手を通して奇跡を行うのか。「使徒たちの手によって」である。キリスト・イエスが教会を建てるために任命された「使徒」による。言うなら、教会を建てようとする人の手を通して奇跡は起こる。教会を建てようする教会中心的信仰者が仕えていく時に、奇跡は必ず彼らを通して現れる。アーメン。

では教会を建てようとする人はどういう教会を目指すべきかを聞かなければならない。そこに本当の奇跡があるからである。それは最初の奇跡を見れば分かる。足の聞かない人を歩かせたペテロとヨハネが“行ったことではなく、あげたのは”「イエス・キリスト」であった。つまりキリスト・イエスをあげる教会を建てなければならない。キリストを与えられる教会を建てるなら、そこには奇跡としるしが伴われる。

しかしキリスト・イエスがなければ、イエスを持っていなければ私たちはキリストを与えることができない。「あなたにキリストがありますか?あなたはキリストをもっていますか?」という問いへの答えはあなたの持ち分である。

あなたのためによみがえられた主 20074月8

マタイによる福音書2816-20

  主を否認した弟子たちに復活の主はガリラヤに行きなさい、そこで私と会うであると言われます。裏切られてもイエスは弟子たちをお見捨てにならなかった。なぜガリラヤか。12名中11名がガリラヤ出身である。彼らはそこでイエスと出会い、イエスの弟子となった。まさに原点に戻ってやり直そうと言われるかのように聞こえる。そうかも知れない。
 しかし主はガリラヤの山に行きなさいと言われた。「山」は何処の山か分からない。しかし、主は裏切った弟子たちと「山」で再会することを望まれる。「山」は何処であり、何を意味するのか?5章の山上の説教が語られたのはガリラヤ付近の山である。新しい律法であり、福音であった。まさにモーセが神から与えられた神の御言葉をシナイ山で語られたが、それの完成が山において行われた。 
 つまり、山は説教があるところであり、神の御言葉が語られるところである。さらにキリストの変貌も山の出来事であった。「これに聞け」(17:5)。つまり、従順の恵みが求められるところが山である。あなたは復活の主と出会いたいのでしょうか。もしそうであれば、「山」に行くべきです。それは他でもなく主の御言葉が語られる「教会の説教」でありそれに従うあなたの「従順」にあります。

あなたのために苦しまれる主 20074月1

マタイによる福音書2620-30

イスカリオテ・ユダはイエスを裏切った(渡した)。なぜか。聖書は彼に「サタンがはいった」(ルカ22:3)という。サタンが入りやすかったのでしょうか。誘惑されやすい信仰者はどういう人か。例えば、ヨハネ12章に現れるように彼はイエスへの愛と貧しい人への愛とが区分できない、区別できない、何が本質なのか分からない現実主義者であった。貧しい人を助ける・愛・親切・優しさ・同情することなどはキリストの本質とは違う。神の愛はまずあなたの罪のために御子をお遣わしになったところにある。さらにユダは12弟子の中で賢かったからでしょうか「財布をあずかっていた者」であった。この世の知識とこの世の愛の基準でキリスト・イエスに仕えることはできない。イエスは彼によって、誰に渡されたのか。それは「罪人らの手に」である。あなたが罪人ですか。主はあなたに渡されました。そして主は言われます。「取って食べよ。私の体である」(26)。キリストはあなたの手に渡されながら、言われます。私の体を取りなさい。そして食べなさい。罪人であると告白する者に主は渡されます。そしてその人のみが主を食べる事ができるのです。

あなたに対する神の執念 20073月25

ルカによる福音書158-10

10枚の銀貨から失われた一銀貨を探し求める女にとって、その一枚の銀貨はどういう意味があったのだろうか。どれほど重要であったから、それを見付けると盛大な晩餐を催したのだろうか。確かなことは、銀貨1枚にすぎないにしても、彼女にとっては何よりも貴重なものであったことである。それは結婚の指輪のようなものである。一人の人を愛して、一生涯一緒に生きることへのしるしとしての指輪は値段を付けることの出来ないものである。実にキリストはあなたを探し求めたのである。あなたは以前失われたものであり、それでくらやみの中に生きていたものであった。失われた存在であったから、本当の自分の持ち主、自分の創造主から離れていきる存在であった。しかしキリストは自分の命をささげるまであなたを探し求めた。それで、キリストはあなたを見つけたのである。今や、あなたはキリストにとって花嫁であり、指輪である。あなたの故に、天におられる父なる神と共にキリストは天上の晩餐を催して喜ばれているのである。銀貨は常に人々に見せるような形でもっていたから、キリストも、あなたを他の人々に見せたいのである。あなた自身がキリストの自慢であることを忘れないようにしましょう。

あなたが愛する人は今どこにいるか 20073月18

ルカによる福音書151-7

パリサイ派や律法学者が居たイエスの前に急に、収税人や罪人が話しを聞きに来た。二つの異質的なグループの人々を前にしてキリストは、失われた一匹の羊の譬えから始め、幾つかのたとえを話される。結論は、一人の失われた者が悔い改めるならば天におられる神はどんなに喜ぶであろうかという。つまり、イエスは悔い改めをするように人々に宣べ伝えている。悔い改めようとしない、それを必要としない者よりも、常に神の前で罪を悔い改めて、主の恵みを求めることこそが真に生きることであるという。
 悔い改める者は誰か。何らかの理由で羊飼いから離れたものである。羊の声に聴き従うよりは目の前にあるものに執着していき、結局別の所に行ってしまったものである。そして自分の力ではなく、神の力によって生きていかなければならないと悟った人である。そこに主が立ち寄り、ボロボロになっていた迷いの一匹を肩にのせて「本家」本来自分が居るべき場所に、持ち帰ってくださるのである。主があなたを探したように、あなたが愛する家族や友をも探しておられるのである。あなたが愛する人は今何処にいるのか。イエスに告げなさい。

はじめるあなたに 20073月11

使徒行伝432節〜511節(朗読:使徒行伝53-4節)

歴史上教会が具体的に現れ、教会の時代が始まっていく中で、聖書はアナニアとサッピラの事件を書き留める。教会形勢に伴い神の恵みを感謝する献金が増して行く。全財産、あるいは畑を売って捧げる人もいた。本文に、バルナバとアナニア(妻サッピラ)という二人が対照的に記されている。両者は財産を売って献金しようとするが、前者は約束通り捧げるが、後者は代金をごまかして、一部だけ捧げる。「ごまかす」という言葉は、あのイスラエル民がカナン時代に突入する際、アカンが奉納物「取った」という言葉と同じ。教会時代の始まりの最中にアナニアが「金銭」の問題を起こし、カナン時代の開始の最中にアカンが「金銭」の問題を起している。つまり、新しい時代が始まる際に、聖書は「献金」が如何に重要であるかを指摘している。お金は「ある意味で人間にとって一番大事な物」であり、ある時には命さえも奪う。だから「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」とさえイエス様は言われる。献金は神のものである。無い事と惜しく思う事は真に違う。著者は教会員の本音の問題を指摘する。宝のあるところに心があるなら、心から礼拝を捧げることを一体どういうことか。神と金、両方に仕えることはできない。

大胆に生きる 20073月4

使徒行伝431

ペテロとヨハネは福音伝道の故に牢屋に監禁され、二度と伝道しないように脅かされてから、「仲間」に戻ることができた。つまり、「仲間」はまだ“そこ”に居続けていた。2-3ヶ月前イエスの逮捕と死の出来事が起こった時、弟子たちは皆逃げたが、今度は逃げなかった。なぜか。逃げなくてもよい、という自信・確信・大胆さがあったからである。

それは何処から来たのか。聖霊に満たされて聖書に聞いたからである。ペテロとヨハネの報告を受けるや否や弟子たちは忽ち詩篇2篇の成就であることを悟って歌った。聖霊に満たされて弟子たちは祈りばかりでもない、讃美ばかりでもない、神の御言葉である聖なる書に耳を傾けていた。一貫して聖書が言うのは、「聖霊充満は御言葉充満のほかない」ことである。聖霊によって御言葉に聞く時にリバイバルの兆しが現れ、神の力が具体的に見えてくる。

弟子達が忽ち神を創造主として褒め称えた事は、歴史と世界を創造し、導き、摂理しておられる神だから今の試練も勝利に終わるに違いないという告白である。この世の激しい波が押し寄せてきても、大胆に生きることのできる恵みは、あなたの神が「創造主」であるという信仰の確信から来るのである。

あなたの断る理由は何でしょうか 20072月25

ルカによる福音書1415-24

神の家を「いっぱいになるように無理やりにひっぱってきなさい」。神には人間に救いを与えなければならない必然性など一つもない。しかし「無理やりに」でも救いに与らせようとされる。人を愛する神とは、まさにこのことであろう。しかし招待されていた人々はこの世にとても忙しくしていて、それを拒む。人間は、神の愛などは安売りに出すものにすぎないと考えている。
 人生のさなかで理論や理屈、この世の忙しさよりも、ある意味でそんなものはどうでもいい、ただ「神の愛」が必要であると切実に体験した者こそが、その神の愛にふさわしいかもしれません。言うなら、足の不自由な人などは自分の力では神の御前に来られない。「足の不自由」という“他者”の力が神の家にいく動機となった。私たち自身の中には神に行かせる「他者の力」が存在している。それに気付く人も気付かない人もいる。
だから、それに気付かない人、全然関心のない人でも、神様は愛するからこそ「無理やりに」でも引っ張って来させようとされる。わたしたちは神にとって「無理やりに」でも来させられなければならない存在です。それほど愛されているのです。それを拒む言い訳ほど悲しいことはないのではないか。

この世の論理とキリストの論理 20072月18

マルコによる福音書827-30

神の家を「いっぱいになるように無理やりにひっぱってきなさい」。神には人間に救いを与えなければならない必然性など一つもない。しかし「無理やりに」でも救いに与らせようとされる。人を愛する神とは、まさにこのことであろう。

しかし招待されていた人々はこの世にとても忙しくしていて、それを拒む。人間は、神の愛などは安売りに出すものにすぎないと考えている。

人生のさなかで理論や理屈、この世の忙しさよりも、ある意味でそんなものはどうでもいい、ただ「神の愛」が必要であると切実に体験した者こそが、その神の愛にふさわしいかもしれません。言うなら、足の不自由な人などは自分の力では神の御前に来られない。「足の不自由」という“他者”の力が神の家にいく動機となった。私たち自身の中には神に行かせる「他者の力」が存在している。それに気付く人も気付かない人もいる。

だから、それに気付かない人、全然関心のない人でも、神様は愛するからこそ「無理やりに」でも引っ張って来させようとされる。わたしたちは神にとって「無理やりに」でも来させられなければならない存在です。それほど愛されているのです。それを拒む言い訳ほど悲しいことはないのではないか。

神に従うこと、人に従うこと 20072月11

使徒行伝1322

人は変えられるのか?生まれつきの足のきかない人が歩き回ったり踊ったりして神を讃美したのは、一つの変化、つまり再生を現す。ペテロもヨハネも変えられた。再生された。どうして変えられたのか?前者を考えればすぐ分かる。それは「キリストの名によって」である。キリストの名は呪いではない(使徒19:13参照)。それはキリストの臨在、力そのものである。人はキリストの名によってのみ変えられる。

キリストの名によって変わった者は神のみ言葉を宣べ伝える。聖霊充満は宣教と常にセットになっている。奇跡や癒しによって人は変わらない。人はみ言葉によって変えられる(4節)。

キリストの名によって変わった人は、世に勝つものである。この世の知者たちの前で憚ることなく、大胆に語る。だから世は驚く(13)。すでに主は勝利を約束しておられる(ルカ21:12以下)。

キリストの名によって変えられた人は、神中心に生きる。人に従うよりも、神に従うのが正しいという(19)。キリストによって変えられた人は神中心、神の論理で生きる。結局は、それがこの世に勝つことである。「罰することができなかった」(21)。神中心に生きる者は、常に世に勝つものである。


家造りらに捨てられた石 20072月4

使徒行伝41-12

福音が宣べ伝えられる時、神の恵みによってそれを信じる者がいれば、拒否する人もいる。後者の場合、その殆どが自己先入観、偏見、自己守備型である。例えば、サドカイ派は理性から見て、復活はありえないという先入観を持っている。彼らは「敬虔な合理主義者」、または「敬虔な理性主義者」である。こういう人が常にいるから、教会は敬虔な様子(form)をしながらその力(power)を失っている(IIテモテ3:5)。実は、イエスを信じていること、自分こそ「奇跡」だと思っている人はあまりいない。この世の論理が蔓延っている教会から見れば当然かもしれない。

この世の論理による専門家たちはイエスを捨てた。しかし神の論理から見れば、イエスは「すみのカシラ石」である。神の論理とこの世の論理は正反対である。あなたが生きる論理は、神の論理なのか、この世の論理なのか。

もし、この世の論理に生きるなら、あなたは真のあなたの人生を建てる時の「すみのカシラ石」なるキリスト・イエスと出会えないであろう。この世の専門家にあなたの人生を委ねることは、崩れることである。崩れないあなたの人生を建てるために、変わることのないカシラ石イエス・キリストが必要である(12)



絶望から希望への途
 20071月28

ヨハネによる福音書91-7

「イエスが生まれつき盲人を見たれた」ことは、すでにそこに出来事が始まったということである。弟子たちは「盲人」という不幸的現実を運命的思考によって片付ける(2)。この盲人は誰のせいなのかという過去志向的・批判思考的な考え方によって現実を見る。しかし、イエスは神中心に現実を診る(3)。「盲人」という不幸の現実をただ誰のせいなのかという見地からみる人と、神の栄光から診ようとする人とは、正反対である。教会に必要な後者である。

さらに、神の御業には「わたしたち」が(4)仕えなければならない。イエスが実際になさるが、「わたしたちはしなければならない」という。神の御業は主ご自身が実際に成し遂げられる。が、わたしたちがする。キリストはつばきをし、泥をつくり、盲人の目にそれを塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われる。

泥を塗ることは泥による再創造の恵み(創世記1)がそこにあり、シロアムにいくことは、神の守りと助け(イザヤ8:5)が満ち溢れることを現す。さらに、イエスが遣わされたように、あなたも遣わされ、そしてこの盲人も遣わされることにおいてその恵みに与ったことを覚えよう。主から遣わされる事は、主によって創造され、守られ生きることである。


(ヴィジョン狩りシリーズ11)
あなたに求められるのは忠実である 20071月21

コリント第1の手紙42

コリント教会の問題の一つは分争である。言うまでもなく、みな語ることを一つにし、分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって固く結びあう(1:10)ところが教会である。しかしコリント教会だけでなく、今の教会にもそういう問題がある。ではなぜそういう問題が教会に起こるのか。1章〜3章の間には、二つの原理が記されている。それは「この世の知恵」と、「十字架の言」(十字架の知恵)である。問題の原因は、後者によって建つところが教会なのに、前者がそこに蔓延っているということである。

十字架の言はこの世から見れば愚かである。問題はあなたにとって十字架は愚かであるかどうかである。十字架の言、これは十字架の知恵であり、十字架的原理ともいえる。

この十字架の原理がその真髄となるべきところが教会である。だから、十字架の言を信じる信仰は、「神の力」(1:18)である。教会はこの世の知恵による「俗悪な無駄話、偽りの知識による反対論など」(Iテモテ6:20)によって議論・学問を述べるところではない。教会は十字架の言を信じる信仰という神の力によって導かれるものである。この世の学問を土台とした信仰ではなく、神の力という信仰があなたと私、教会に必要である。


(ヴィジョン狩りシリーズ10)
選ばれた300人の勇士 20071月14

士師記718

真の神を知らずに偶像を拝む異邦人によって悩まされるイスラエルの民を救い出すために、神はギデオンを選ばれた。ギデオンは神が共におられることを確信し、兵士を呼び集める。32千人が集まった。長い間、神無しに生きてきたイスラエルの民がもし戦争で勝ったとしたら、彼らは必ず「私たちが強かったから勝った」というであろう。常に人間はそうであることを否定できない。

そこで神様は32千人からたった300人しか選ばなかった。神は300人の勇士で、「いなごのように数多い」ミデアン人、アマレク人などと戦わせようとする。私たちは300人が選ばれる方法に関心を向けるより、300人が神によって選ばれ、「いなごのように数多い」異邦人のと戦いに出かけたということに注目しよう。300人の中から誰も、“たった300人でイナゴのように多い敵と戦えない”と、呟いた者はいなかった。

神によって選ばれた300人を神は信じていたのである。“あなたならやってくれる”、“あなたなら自信をもってやるであろう”、“わたしがあなたと共にいるから安心しなさい。あなたはできるでしょう”、と300人に向かって神は語られたのではないか。主は今日も“あなたはできるね”、とおっしゃっておられる。


(ヴィジョン狩りシリーズ9)
あなたの口を広くあけよ、私はそれを満たそう
 20071月7

詩篇8110

「わたしはあなたをエジプトから導き出した主なる神である。あなたの口を広くあけよう、わたしはそれを満たそう」。神はエジプトからあなたをあがない出した主である。「わたしは」という主の自己強調は、あなたが信じている「神は」こういう神であられることを強調する言葉である。

あなたの信じる神はどういう方なのか。あなたを「エジプト」から救い出す事の出来る力あるお方なのか?全知全能なる万軍の神は、あなたを「エジプト」から救い出す方である。あなたはエジプトという罪の奴隷であったが、主があなたをそこから救い出したのである。罪と死の力を打ち破った神様が言う。「口を広くあけよ。わたしがそれを満たそう」。神はあなたが満たされるのを望んでおられる。

2007年度は主によって満たされるようではないか。あなたは主の言葉を信じて「口を広くあけなさい」、主はそれを満たしてくださる。

パウロは、私を強くしてくださる方におって、私たちはなにごとでもすることができるという。この告白はパウロだけのものではない。あなたも信じるならその告白ができる。今年は「何事でも出来る」信仰によって満たされて行こう。