袋井北教会

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信仰者の聖なる集まりとしての教会は、救いの喜びと恵みを多くの人々に宣べ伝えることを最大の目的とします。

コラム - Columns -
コラムのフォーラム(Forum of Columns)

「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」 / ホセア書4章6節

今日の教会の信仰と神学に対する一言


2009/11/07 更新
使徒行伝16章1-10節
パウロの第2回目の伝道旅行は最初から不和による痛みを覚えなければならなかったものでした。しかし、神様の宣教は備えられた通りに運ばれていきます。シラスとテモテが加わり、パウロの伝道はより加速となります。しかしながら、第1回目の伝道旅行において建てられた教会を見回り、激励し、さらに伝道しようという計画は、御霊の妨げと、主の霊の許しがないまま、実行できませんでした。計画のなかった完全に別のところに行かざるを得なかったのです。それはトロアスという港でした。
今日の本文から、真剣に考えるべきことは、なぜ「トロアス」なのか?という問題でした。結論的に言えば、それはもちろん神のみ旨であったに違いありません。しかし、パウロの計画は完全に無視されてしまったのです。自分の計画を無視されてもそれに従うパウロの姿は、今日わたしたちが学び取るべき大きな恵みであります。
それでは、なぜ神様はトロアスに行かせたのでしょうか。そこには「一人が立って、・・・渡ってきて、わたしたちを助けて」という切実な願いの祈りがあったからでありましょう。神様の計画はわたしたちが知らないという意味では未知の世界ですが、しかし、み旨を来たらしめる道は、祈りです。パウロの計画を覆して、予想もしなかったマケトニアに赴かせることは、一人の人の切実な祈りによるものであります。あなたの真実な切なる祈りは神の御心を動かしうるものです。
2009/09/27 更新
使徒行伝15章36-41節による説教
シラスはなぜパウロと伝道旅行に出かけることになったのか? あるいは、何が、彼にして、アンテオケに立ち留まらせたのか?というような問いは、霊的成長を祈り求める者にとって、必要な問い掛けであろう。
残念ながら、その答えを聖書は提供しない。が、確かに言えるのはエルサレムとアンテオケ教会との違いを彼は感じ取ったことであり、さらに伝道する思いがこのアンテオケで与えられたことであろう。パウロとバルナバの働き、彼らの主の宣教命令への命賭けの忠実さを目で見て悟ったのであろう。そこから彼の考えや生き方が変わったのである。
ところで、このシラスはパウロにとってよき同僚であるが、パウロはマルコを連れていくのかどうかということでシラスと激論した。パウロはマルコを連れて行くことに反対し、バルナバはつれて行こうとする。
どちらのほうが正しいのか?どちらでもよいであろう。しかし、聖書はこの時点で、その宣教の主役が確実にパウロに移っていく。宣教の舞台における主人公、あるいは神の宣教歴史を貫く役者としてパウロは前面に出ていく。バルナバとマルコはこれ以上、その姿をみせなくなる。
隣人を愛することのゆえに、主の仕事が妨げられることがあるならば、あなたはどうするのか?弱者の故に、主の宣教に支障が出たらどうするのか?単純な考えであり、愚かな問い掛けであるかもしれない。しかし、今、あなたに聞きたい。そして、あなたの答えは何なのか?
人本主義から離れよう!人本思想から離れよう!そして、神本主義に帰れ!神中心の信仰に帰れ!人に仕えることは、神に仕えることと違う。神に仕えることこそ、生きることであり、そこから人に仕えられる人間になるのであろう。
2009/09/26 更新
使徒行伝15章36-40節
アンテオケ教会はエルサレム教会における使徒と長老たちの判断をまっていた。異邦人がキリストを信じて救われる時に、割礼を受ける必要があるのかという問題である。エルサレム教会の会議は誰でも主イエス・キリストを信じるならば、その人は救われることを再確認し、割礼を受けなくてもよろしいという判断を下した。
私たちが異邦人であれ、ユダヤ人であれ、死刑囚であれ、殺人者であれ、どんな人であれ、重要なのは、今、現在、主イエス・キリストを信じて受け入れているなら、その人は救われるということである。
ところで、ユダとシラスという二人の預言者もエルサレムから遣わされた。神の御言葉を説教するのが、預言者であった。さらに、この二人のなか、シラスはエルサレムでの信仰生活するのを断念して、アンテオケ教会に留まることを願った。何が、シラスの信仰生活の場を変えさせたのか。聖書はそのことについて説明をしていない。が、確かにいえるのは、エルサレム教会とアンテオケ教会には、何か違いがあったことである。シラスはエルサレムの指導的な人であったが、エルサレムにはない、何かがアンテオケ教会にはあったのである。
それは一言で言えば宣教に燃える、伝道に熱心である、生き生きとした教会であったことです。伝統と保守的な姿勢ではなく、常に主の最後の命令に熱心であったことであったのであります。つまり、霊的に魅力のある教会でした。霊的魅力のある教会は、今私たちが目指すべき、取り戻すべき教会の姿でしょう。ただ、歴史があり、伝統があり、保守的であることがよいことではなく、常に主の御言葉に改革されつつ、前進する教会こそ主が必要とされる教会ではないか。
2009/09/19 更新
使徒行伝15章30-35節
イエス・キリストが父なる神様から遣わされたように、わたしたちも遣わされた者である。ヨセフは旧約において、典型的に「先に遣わされた」者である。私をこのエジプトに遣わしたのは、あなたがたではなく、神様であるとヨセフ自身が言っている。
先にここに遣わされたことには意味と目的がある。あなたの命を助け、あなたの子孫を守るためであるとヨセフが言うように、今、わたしたちが主イエスを信じて、先に十字架の前に遣わされたのは、私たちの命を助け、私たちの家族と子孫を守るためである。それは、あなたによって、あなたの家族と子孫が守られ、あなたがたの命が助けられるのである。
ヨセフのこのような信仰、起こってきた悲劇的な出来事を、神様の導きであり、神様のご計画であると告白させる、この信仰はどこから来たのか。それは、神を知ることだけではなく、その知った神と出会い、その神様を体験していくことである。
では、どのように神と出会えるのか?
出エジプト33章20節以下に「あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔を見ないであろう」。神と顔を面して出会うことは、ありえないと聖書は確かに語る。しかし、神の後ろは見ることができるという。「うしろ」とは何か?神様が導いておられるこの歴史であると言えないだろうか?あなたの人生を振りかえって見なさい。そこに確かに主ご自身があなたのためになされた多くの業を見るであろう。それが主を見ることであり、主と出会うことである。あなたがあなたの人生が、確かに神の恵みによって導かれた、あれもこれも神のご計画であったと告白できますか?それで、これからもよいこともわるいことも、すべてが神の恵みであると告白できるのか?それであれば、あなたは主と出会ったことである。
2009/08/28 更新
罪の問題を解決しなくては
人は罪を犯しては生きられない。罪の報いは死である
然し人間は一生罪を犯していく者である。この問題を解決しなければ私たちは幸せを得ることはできない。罪はわたしたちの潜在意識の中に在り、すべての人間に通じる良心を与えて、時に現れ健全な生活を壊し、責めを受けて憂いを生じさせ、意欲を失わせ、心のバランスを失わせ苦しめられる。無意識の中に神の怒りの恐怖の中に生きる者とされる。これは信じる者も信じない者も同じ心理であり、この死の罰から逃れるために多くの宗教は人間の善をもって償おうと教えている。然しキリスト教は人間の力ではなく神のひとり子を贖いの供え物として差し出し、私たちが負うべき罪の罰としての死の身代わりとして神の子イエス・キリストを十字架につけ、死というかたちで罪の代価を支払ってくださったのである。その苦しみは十字架の死における苦しみのみならず、私たちがこの世で生きる中で受けるべき全ての苦しみ悲しみを担い、また全ての人の罪を背負う苦しみであり、ご自分を無にする苦しみ、僕のかたちにして死に至るまで従順で在り続ける苦しみであり、愛する神から見捨てられる苦しみであり、私たちが受けるべき死と地獄の苦しみから救うための苦しみであった。またこの苦しみに耐えられるお方は神の属性によらなければ耐えられず、ゆえに罪のない人間の代価が必要とされたのである。
この死と苦しみをもって罪にたいする永遠に無限な許しのいけにえとして贖われたイエス・キリストに赦しを請い求めるならば過去、現在、未来におけるどのような罪も赦され、死の罰から免れさせてくださるのである。今わたしたちは御子の死の代価によってすべての罪からの死に勝利を得ているのである。
この恵みに与ったものとしての確信をもっていくならば自信をもって神の御前に進み出て行こうではないか。そうするならば真のクリスチャンとなってこの世と戦うことができる。私たちの支払うべき代価を支払ってくださったイエス・キリストを信じしっかりと立てていくならばこのいと小さな袋井北教会からも日本を福音化することができると確信する。
 

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